保育用語

保育用語 ≪人名(日本人)≫

赤沢鍾美(あかざわあつとみ)―保育原理―
新潟静修学校を開設し、そこに通う熟成が背負ってくる幼い弟や妹の世話を妻に任せていました。これがわが国の託児保育所のはじまりとされています。

 

石井十次(いしいじゅうじ)―保育原理―
日本で最初に孤児院を創設し、「児童福祉の父」と言われていて、社会 福祉事業の先駆者です。

 

石井亮一(いしいりょういち)―保育原理―
濃尾震災によって被災した20名余の女子の孤児を引き取り、明治24年に東京に「孤女学院」を開設しました。孤児の中に知的障害児が含まれていた事がきっかけとなり、明治30年、「孤女学院」を「滝乃川学園」と改名して知的障害児施設としました。「知的障害児教育の父」と呼ばれています。また、妻筆子も近代女子教育の先駆者の一人で、「知的障害児教育の母」と呼ばれています。

 

糸賀一雄(いとがかずお)―児童家庭福祉―
第2次大戦後の日本の社会福祉・障害者 教育の発展に先駆的役割を果たしました。
「近江学園」を創設し、園長を務め、西日本で最初の重症心身障害児施設「びわこ学園」を創設するなど、多くの施設建設を手がけるとともに、中央児童福祉審議会・精神薄弱者福祉審議会の委員や全日本精神薄弱者育成会(手をつなぐ親の会)の理事として、国の制度づくりにも尽力しました。

 

筧雄平(かけいゆうへい)―保育原理―
天保23年、繁忙期の農家の子どもたちは不衛生で危険な場所に放置されていることもあり、このような子供たちを守る為に村の尼僧の協力を得て「農繁期託児所」を開設し, これが季節保育所のはじまりと言われています。また蔵書を提供して図書館をひらくなど,公益事業にも力を尽くしました。

 

城戸幡太郎(きどまんたろう)―保育原理―
保育問題研究会の会長。
「子どもを大人が導く必要性」を主張して「社会的訓練」を保育の目的とした「社会協力の訓練」を説きました。社会中心主義。

 

倉橋惣三(くらはしそうぞう)―教育原理―
大正から昭和にかけて児童中心主義の理論と実践を指導。東京女子高等師範学校付属幼稚園の主事。
フレーベルから影響を受け、日本のフレーベルと呼ばれました。恩物中心の形式主義的保育を批判し、幼児の生活自体を基本とする「誘導的保育論」を提唱しました。

 

近藤真琴(こんどうまこと)―保育原理―
大木喬仁、中村正直、新島嚢、福沢諭吉、森有礼と並ぶ明治の六大教育家の一人です。日本ではじめて海外の幼児教育について紹介する単行本博覧会見聞録別記 子育ての巻』を発表しました。

 

佐藤信淵(さとうのぶひろ)―保育原理―
幕末期に農政学者などとして活躍し、わが国で初めて公費による保育施設の設立を提唱した人物です。著書『垂統秘録(すいとうひろく)』の中で、貧しい国民の乳幼児を預かる「慈育館」や、昼間に4~7歳までの子どもを遊ばせる「遊戯廠」という保育施設を構想しており、これらをすべて公費で運営すべきであると考え、当時としては先進的な教育理論を展開しました。

 

高木憲次(たかぎけんじ)―社会的養護―
整形外科医。日本の「肢体不自由児の父」と呼ばれています。「夢の楽園教療所」を提唱し,日本で初めて「肢体不自由児調査」という根拠に基づいて肢体不自由養護施設が日本に必要であると説きました。1932年に日本で最初の肢体不自由児学校である光明学校を設立。治療・教育・職能の三位一体となった療育施設の必要性を説いています。また、日本初の肢体不自由療育施設である整肢療護園の初代理事長であり、レントゲン研究の第一人者でもあります。

 

留岡幸助(とめおかこうすけ)―社会的養護―
明治32(1899)年に、今日の児童自立支援施設の原型となる私立感化院「家庭学校」を設立しました。

 

野口幽香(のぐちゆか)―保育原理―
1900(明治33)年、野口幽香、斉藤峰の2人によって東京四谷のスラム地帯に東京二葉幼稚園を設立、恵まれない子どもに良い環境での教育を施しました。1915年、二葉保育園と改称されました。スラム保育(貧民幼稚園)のはじめとされています。

 

森 有礼(もりありのり)―教育原理―
薩摩藩出身の政治家で小学校令・師範学校令・中学校令を制定した初代文部大臣です。一橋大学の創設者で明治六台教育家の一人でもあります。また、「良妻賢母教育こそ国是とすべき」と、女子教育にも力を注ぎました。

 

渡辺嘉重(わたなべよししげ)―保育原理―
明治16(1883)年、家族の人で不足から子守の為に、一般の小学校に通学できない児童のための子守学校を茨城県に開設しました。簡易な普通教育を行い乳幼児保育の施設も整え保育の観点から一緒に教育したと言われています。明治、大正を通じ数は多くないが各地に開設されました。

 

和田実―保育原理―
幼児教育の基本原理、つまりルソー、ペスタロッチ、フレーベルと受け継がれてきた「自然主義教育」を基本において明治41年に中村五六と「幼児教育法」を著しました。そして、「幼児教育」という言葉を日本で初めて使ったのは、和田実で、幼児教育を科学的に教育学の体系に位置づけて論じ、「感化誘導」の保育の理論を初めて公にしました。
幼児の生活を休養・衣食住のしつけ・自然的積極的な遊戯の側面からとらえ、特に遊戯を教育するには、教育は自己活動によって知らず知らずのうちに導く「感化誘導教育」で行うべきであり、「遊ぶことに手をつけるな、しかし、目は離すな」「計画は必要であるが、固定的であってはならない」などと主張しました。

 

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